繊細さと思いやりの間

わたしの娘はHSC(ハイリーセンシティブチャイルド)です。毎日こわいと言っています。

私はというと、たぶんHSP(大人になったHSC)。

ネット上のテストでは最高得点をだしますし、アーロン博士が作ったオリジナルテストにある「カフェインに敏感である」項目もクリアするほど体も敏感。コーヒーを飲むと卒倒してしまいます。

という訳で、日々、そんな自分や娘と向き合っている訳なんですが。

最近よく思うのが

敏感= 繊細 = 思いやりがある

と解釈されがちなんだけど、違うよね、という事。

 

ちまたで言われている敏感さってHSPもそうですけど「内向き」なんですよね。

 

自分がいかに傷つくか。

自分がいかに反応するか。

 

敏感な人は、この「傷ついた」「反応の多さ」「情報量の多さ」で心の中も、頭の中もいっぱいになります。その結果、自分の中の事や、自分が受けたことに意識が集中してしまう事が多いようだなと思います。

…で、私は敏感で繊細なんだなーと思う。そこまではOK。

で、ここからが問題。

→相手に「わたしに配慮しろ」といったり嫌悪感をつのらせるのか

→自分とは違う、敏感ではない相手の感覚はわからないけれども、理解しようとするのか

ここで、大きくわかれるんだなーと思います。

外に対して、理解をしようとする努力ができるのかどうか。

子どもだったらしょうがないのかなと思います。

でも、HSPは「熟慮」もできる人たちなんです。

生まれて何十年もたって、そして本当に敏感で繊細なのだったら、相手の心や感覚にまでアンテナをはりめぐらせ想像を伸ばせるのではないかなーと思うわけで。

人を思いやるというのは、他の人のことはわからないのが当然だけど、理解しようと努力することから始まると思う訳です。
※私自身ができないので、意識して努力をしている所

敏感ではない、繊細ではない、というのも生まれもった特徴の1つにすぎないよね。

敏感だと言いながら、敏感さを生まれ持っていない人を理解しようとしないのは、矛盾しているよ~な…。

相手に対してまったく敏感でも繊細でもないよね( ゚∀゚)・;’.、グハッ!! 

自分の感覚に溺れてアップアップしてるだけなのかもしれないけど、それではいつまでも、自分だけが傷ついていると勘違いしたまま人生をおくることになるよなあと思う。それって、すごく損だなあと思います。

敏感でも繊細でもない人って、やさしいですよ。

まず、意識が外向きなので、人に対しての余裕があります。

外向きに繊細であるともいえます。

私が気づかない事に気づいてくれます。

能天気な人の、能天気なやさしさ、というのがあります。

コチラの傷に気づかないやさしさ、もあります。

 

私には出来ない事を表にたって色々してくれたりします。

私がきづかないうちに。

 

わたしはそういう事にも敏感であり繊細でありたいなと思っています。